手帳(3)

 男は電子手帳の目覚まし機能で6時半に起こされた。

 数ヶ月間に手帳に蓄積されたデータは膨大なものになって、ようやくメモリー容量の半分くらいまで達した。仕事や遊びで行動する範囲の地図、よく聴くCD、好きなタレントの写真・・・心のすき間でも埋めるように、思いついたものはすべて手帳に記憶させていったのだ。そうこうするうちに、メーカーからは新しい「大容量メモリー拡張オプション」が発売されたので、昨日それを購入したところが、再び空きメモリーが100%近くに逆戻りしてしまった。

 ベッドの中で男はどんなデータで手帳を満たしたらよいものかをしばらく思案していたが、そうしているうち二度目のアラームが鳴ったので、それを解除して、今日の予定に目を通す。最近手がけているS社のシステムのことで、会社で朝一番にミーティングがある。それで普段より少し早起きしたのだった。会社に出かけるのは久しぶりだ。

 起き上がってコーヒーメーカーのスイッチを入れた後に着替える。トーストをくわえながら手帳で電車の時刻を確認すると、11分後の快速がちょうど良さそうなことがわかる。と言うよりも、手帳がその電車に乗るように指示しているのだ。電車の乗り継ぎ時間はもちろん、駅までの距離、ミーティングの開始時間などが全てインプットされているので、それから逆算して、乗るべき電車を教えてくれる。おまけに、天気予報で雨の確率が高いので、傘を持っていくようにとの表示もあった。

 あいにく、先日折りたたみ傘をどこかに置き忘れたばかりだったので、手帳を上着のポケットに放り込み、ブリーフケースだけ持って自室を出た。電車は相変わらず混んでいたが、ドアの横のすき間に体を入れることができたので、片手で手帳を持って、読みかけの雑誌をぱらぱらめくる(実際には、ボタンを押してページをめくる)。最近では、新聞はもちろん、雑誌や漫画のほとんどは、こうした携帯端末で読めるようになって、以前ほどは車内で新聞を広げる姿を見かけなくなってしまった。座席のサラリーマンのほとんどは、男と同様、それぞれに色々な形の端末で黙って熱心に何かを見ていた。

 会社でのミーティングは予想通り退屈なもので、技術のことがよく分かっていない上司を納得したように気にさせるのに随分と骨が折れた。ほとんどの参加者は電子手帳か携帯型のパソコンを机に置いて、メモを取ったり、暇つぶしをしたりしていた。見ると、同僚のKも、男と同じタイプの電子手帳を使っていて、色も同じブラックだった。

 ミーティングが終わった後、Kのほうから話しかけてきた。
「ひさしぶり。うまくいっているようで良かったじゃない。ところで、君もこれ使ってたんだぁ。 いいよね、これ。」
あまり電子手帳のことで話しはしたくなかったけれども
「うん、まあ、しばらく試してるんだけど・・・。」

 Kの新しもの好きには定評があって、特にS社から何か目新しい製品が出ると、一週間もしないうちに手に入れるらしい。Kもまだ独身なので、自由に使える金をほとんどそういった新製品につぎ込んでいるのだろう。かなり前のことになるけれども、S社の小型ロボットが出たときも、オンラインで即座に購入し、会社の皆を驚かせた。ちょっとした車が買えるほどの値段だったはずだ。

 Kは手帳のことで何か話したそうにしていたけれども
「ああ、これからまたすぐにS社に向かわないといけないんで、また・・・」
と会社を後にした。

つづく


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© 2002 Yoshinori Hayakawa